第7話 / 全12話予定
第7話 消したあとに残るもの
〈その人に、謝りたいんです。〉
私は、その前の書き込みを読み返した。
三日前に、嫌なことを書いた。 その文章は消した。 けれど、読んだ人がいる。
〈どんなことがあったんですか。〉
返信を待つ間に、お茶を一口飲んだ。 もう、すっかり冷めていた。
〈絵を載せた人がいました。〉
少しして、次の文章が届いた。
〈駅前の風景を、鉛筆で描いた絵です。〉
私は、その投稿を覚えていた。
*
小さなスケッチブックを、机の上で撮った写真だった。
駅へ続く道。 自転車の並ぶ歩道。 道路の向こうの、古い店。
建物の線が少し傾いていた。 通りの奥は、実際より狭く見えた。
添えられていた文章も、覚えている。
「久しぶりに描いてみました。難しいですね」
私は画像を大きくして見た。
知っている通りだった。 パン屋も、端の方に描かれていた。
そのとき、何か返そうかとは思った。
けれど、絵のことはよくわからない。 「上手ですね」と書くのも、何だか違う気がした。
結局、そのまま画面を閉じた。
*
〈「写真を撮れば済むのに」と書きました。〉
私は、持っていたカップを置いた。
〈そのあとに、「人に見せるなら、もう少し練習してからでは」と。〉
私はそこまで読んで、返信欄から指を離した。
そんな返事がついていたことは、知らなかった。
〈相手の方は、何と?〉
〈「すみません」と。それだけです。〉
〈その返事を見て、自分の書いたものを消しました。〉
しばらくして、また文章が届いた。
〈次に見たときには、絵もなくなっていました。〉
私は、スレッドの一覧へ戻った。
見覚えのあるタイトルを探した。 前にはあった場所に、もうなかった。
*
〈あの絵、私も見ました。〉
そう書くと、すぐに返事が来た。
〈そうですか。〉
〈駅前のパン屋が描いてありましたよね。〉
〈はい。〉
そのあと、しばらく書き込みが途切れた。
私は、画像を拡大したときのことを思い出していた。
店先に、自転車が一台あった。 前かごから、買い物袋が少しはみ出していた。
写真なら気に留めなかったかもしれない。 鉛筆で一本ずつ描かれた線だったから、私はそこを見た。
〈私、何も返さなかったんです。〉
打ってから、消そうか迷った。
今は、私の話をするところではない。
けれど、そのまま送った。
〈見ていたんですけど、何と書けばいいかわからなくて。〉
*
〈このスレッドなら、まだ書いていない日に届くでしょうか。〉
相手が尋ねた。
〈自分に、書くなと言えたらと思って。〉
私は、画面の日付を確かめた。
その人の今日は、私と同じだった。 三日前には、もう戻れない。
でも、別の日にいる人なら。
クリームパンを買えなかったおじいさんは、買えたことになった。 誰にも気づかれず閉めたはずの時計屋には、お客さんが来た。
あの返事も、なかったことにできるのだろうか。
私は入力欄に、
〈できるかもしれません〉
と打った。
そのとき、新しい返信が表示された。
夜ふかし時計さんだった。
〈うちの閉店の話、覚えていますか。〉
〈はい。〉
〈お客さんが来てくれたことも、一人で閉めたことも、今でも両方覚えています。〉
私は、打ちかけの文章を見た。
しばらくして、もう一行届いた。
〈その方の気持ちが、どうなるかはわかりません。〉
私は入力欄を空にした。
*
〈先に、謝る文章を書きませんか。〉
私はそう送った。
〈届くかどうかはわからないですけど、元の絵を見た人なら、誰のことかわかると思います。〉
返事は、なかなか来なかった。
時計の針が、日付の変わる方へ進んでいた。
やがて、長い文章が届いた。
仕事で嫌なことがあったこと。 自分も絵を描いていたこと。 以前、誰かに似たことを言われたこと。
最後に、「そんなつもりではありませんでした」と書いてあった。
私は何度か読んだ。
そして、尋ねた。
〈どんなつもりだったんですか。〉
送ったあと、少し怖くなった。
責めたいわけではなかった。 でも、そこを飛ばすと、また同じ文章になる気がした。
長い間、返信はなかった。
*
〈少し、嫌な気持ちにさせたかったんだと思います。〉
その一文が、画面に現れた。
私は読み終えても、すぐには返せなかった。
続けて、もう一文。
〈でも、絵を消してほしかったわけではありません。〉
私は、消えたスケッチブックを思い浮かべた。
書く人が、どこまでのつもりだったか。 読む人に、どこまで届くか。
同じ文章でも、その二つは揃わない。
〈そのことを、ご本人に書いた方がいいと思います。〉
今度は、迷わず送った。
*
しばらくして、謝罪の文章が投稿された。
〈駅前の風景を描いた絵に、嫌な返信をした者です。〉
〈絵について話したかったのではなく、あなたを嫌な気持ちにさせるために書きました。すみませんでした。〉
〈自分の返信だけ消して、何も言わずにいました。絵まで消えてから、ひどいことをしたと思いました。〉
〈また描いてほしいと頼むのも、許してくださいと言うのも、今の私がお願いすることではないと思います。〉
〈もし読んでいらしたら、お詫びだけでもお伝えしたいです。〉
私は最後まで読んだ。
「これで大丈夫です」とは、書けなかった。
代わりに、
〈読みました。〉
と返した。
*
翌朝も、昼も、相手からの返信はなかった。
その間に、ほかのスレッドは動いていた。
誰かが、なくしたと思っていた鍵を見つけた。 誰かが、漢字の問題を間違えた。 昨日の夕飯の話に、今朝になって返事がついた。
私は、その中にいつもの名前を探した。
絵を描いた人の名前は、なかった。
夕方、謝った人が書き込んだ。
〈やっぱり、もう見ていないんでしょうか。〉
私は、
〈見ていても、すぐには返せないかもしれません〉
と打った。
それ以上は書かなかった。
*
夜になって、私はあの絵について投稿した。
謝罪の文章への返事ではなく、絵を描いた人へ。
〈駅前の絵、私も見ていました。〉
〈パン屋の前の自転車が、よく覚えています。かごから買い物袋が出ていましたよね。〉
〈あの道をよく通るので、知っている場所を誰かも見ているんだなと思って、画像を大きくして見ました。〉
〈そのとき、そう書けばよかったです。〉
送信してから、読み返した。
上手とも、下手とも書かなかった。 私が見たことだけだった。
*
返事が来たのは、寝る支度を終えたころだった。
絵を描いた人の名前だった。
〈袋、気づいてくれたんですね。〉
私は椅子に座り直した。
〈母の自転車です。買い物が終わるのを待ちながら描いていました。〉
もう一度、あの絵を思い浮かべた。
店先に置かれた自転車。 はみ出した買い物袋。 描き終わるまで待ってくれたかもしれない、お母さん。
画面の中では見えなかった時間が、少しだけわかった。
その人は、続けて書いた。
〈お詫びも読みました。〉
〈でも、今はうまく返せません。〉
少しして、謝った人から返信がついた。
〈読んでくださって、ありがとうございます。〉
それだけだった。
私はスマホを机に置いた。
*
もう寝ようとしたとき、再び返信が届いた。
絵を描いた人だった。
〈ひとつ、聞いてもいいですか。〉
〈あの画像を、保存した方はいませんか。〉
私は、画面に手を伸ばした。
〈投稿を消したあと、元の絵も捨ててしまったんです。〉
その下に、短い一文があった。
〈母の自転車が描いてあったこと、今、思い出しました。〉
私はスレッドを上へ戻した。
私の今日。 あの人の今日。 夜ふかし時計さんの今日。
違う日付の人がいる。
あの絵が、まだ消えていない日も。
私は入力欄を押した。
〈今、こちらより三日前にいる方は、いませんか。〉
(つづく)
* * *