第6話 / 全12話予定
第6話 まだ書いていない言葉
〈あなたと、同じ名前の人です。〉
私は、自分の名前が表示されているところを見た。
本名ではない。
初めて返信するとき、少し考えてつけた名前だった。
同じ名前の人がいても、おかしくはない。
〈その書き込み、今も見られますか。〉
〈はい。〉
〈日付を教えてもらえますか。〉
返信を待つ間、私は手帳を開いた。
返ってきたのは、土曜日の日付だった。
「実家。昼ごはん」
私の字で、そう書いてある日の夜。
まだ、来ていない日だった。
*
その人は、画面の画像を貼ってくれた。
確かに、私の名前だった。
〈明日、公園でクリームパンを食べている夫婦に会ったら、二人が何を話していたか、娘さんに教えてあげてください。〉
文章の下には、もう一行あった。
〈うまく説明しなくても大丈夫です。覚えていることを、そのまま。〉
私は、それを声に出して読んだ。
自分が書きそうな言葉なのか、よくわからなかった。
ただ、そこに書かれたことを、私はもうしていた。
公園で会った二人の話を伝えた。
その人は、「母です」と返してくれた。
それは、このお願いを読んだからではなかった。
〈私、まだこれを書いていません。〉
少しして、返事が来た。
〈そうなんですか。〉
続けて、
〈でも、書いていなくても、教えてくれたんですね。〉
私は画面を見たまま、しばらく動かなかった。
*
土曜日、駅で手土産を買った。
何にするか迷って、結局、母がいつも選ぶ小さなせんべいにした。
電車に乗ってから、その板を開いた。
夜ふかし時計さんが、別のスレッドで、止まった目覚まし時計の相談に答えていた。
店を閉めても、聞く人はいるらしかった。
息子さんの名前は見当たらなかった。
たぶん、何かしているのだろう。
そう思って画面を閉じた。
窓の外に、見覚えのある建物が増え始めていた。
*
「ただいま」
玄関で言うと、奥から母の声がした。
「開いてるよ」
もう開けて入っているのに、と思いながら靴を脱いだ。
台所では、鍋のふたが少しずれていた。
煮汁の匂いがした。
「手、洗って。もうできてるから」
食卓に座ると、母が私の手首を見た。
「あら、それ」
私は、少し腕を上げた。
「電池を替えてもらった」
「まだ持ってたの」
「持ってたよ」
「使ってなかったでしょう」
「……うん」
母は笑って、煮物の皿を置いた。
思っていた煮物とは、違った。
でも、これも好きなものだった。
*
食べながら、時計屋の話をした。
閉店の日に駆け込んだこと。
最後のお客さんたちが来たこと。
翌日には、息子さんが棚を外しに来ていたこと。
掲示板の日付のことは、話さなかった。
そこを話そうとすると、説明がずいぶん長くなる。
母は、里芋を箸で割りながら聞いていた。
「よかったね。間に合って」
「うん」
「その時計、買うときもぎりぎりだったのよ」
初めて聞く話だった。
「何が?」
「お店の閉まる時間。仕事が終わってから行ったから」
母は私の腕を見た。
「もう片づけ始めてたのに、何本も出してくれてね」
私は時計の文字盤を見た。
母が店で選んだところを、今まで想像したことがなかった。
「そんなに迷ったの?」
「毎日使うものだから。見やすい方がいいか、服に合わせやすい方がいいか」
「何でもよかったのに」
言いかけて、やめた。
母は私の顔を見た。
「何?」
「ううん。これでよかった」
母は少しだけうなずいて、私の皿に、もうひとつ里芋を入れた。
*
食後、食器を洗った。
母が隣で拭いていた。
前は、私が洗った皿をもう一度すすいだりしていたけれど、今日は何も言わなかった。
「これ、どこ?」
小さな鉢を持ち上げると、
「いつものところ」
と返ってきた。
その、いつものところがわからない。
戸棚をふたつ開けて、やっと見つけた。
帰ってきたつもりでいたけれど、私が知らないうちに、少しずつ物の場所が変わっていた。
最後の湯飲みを渡したとき、母が言った。
「今日は、何かあったの?」
私は手を止めた。
「何かって?」
「いや、ずいぶん話を聞くから」
「いつも聞いてるでしょう」
「そう?」
母は湯飲みの底を拭いた。
私は、ここ数日の自分の相づちを思い出した。
仕事の画面を見ながら。
出かける支度をしながら。
あとで調べようと思ったことを、スマホで調べながら。
「今日は、急いでないから」
そう答えると、母は、
「じゃあ、お茶にしよう」
と言った。
*
帰り際、せんべいの袋を半分持たされた。
「持ってきたものなのに」
「一人じゃ食べきれないもの」
玄関で靴を履きながら、私は振り返った。
母は、戸棚の上に置いた鍵を探していた。
私を駅まで送るつもりらしかった。
「歩くから大丈夫」
「そう?」
「うん。また来る」
母は鍵を探す手を止めた。
「今度は、来る前に連絡してね」
「今回はしたでしょう」
「ああ、そうだった」
二人で笑った。
家を出てから、腕時計を見た。
電車までは、まだ時間があった。
*
その夜、私は例の画像をもう一度開いた。
土曜日の夜。
私の名前。
まだ書いていない文章。
日付には、もう追いついていた。
書かなかったら、どうなるのだろう。
あの人が読んだお願いは、誰が書いたことになるのか。
パンのことも、公園のことも、なかったことになるのだろうか。
考えているうちに、指先が冷たくなった。
私はスマホを置き、持ち帰ったせんべいの袋を開けた。
母が、輪ゴムを二重に巻いていた。
一本でいいのに、と思った。
袋の中には、私の好きな種類が多く残っていた。
私は一本だけ食べて、またスマホを手に取った。
*
入力欄に、文章を打った。
〈明日、公園でクリームパンを食べている夫婦に会ったら、二人が何を話していたか、娘さんに教えてあげてください。〉
画像を見ながら写すのをやめた。
公園のことを思い出した。
おじいさんの帽子。
奥さんが開けていた紙袋。
お茶の時間に遅れた話。
そのときは、誰かに伝えるほどの話だと思っていなかった。
けれど、聞きたい人がいた。
私は続きを打った。
〈うまく説明しなくても大丈夫です。覚えていることを、そのまま。〉
送信のボタンに指を置いた。
私の明日には、あの公園での出来事はもう起きない。
それでも、このスレッドのどこかには、まだあのベンチの前を通っていない人がいるのかもしれない。
誰に届くかはわからなかった。
私は、送った。
*
投稿は、いつもと同じように表示された。
日付も時刻も、今だった。
しばらく待ったけれど、何も起こらなかった。
私はお茶をいれ、母にメッセージを送った。
「今日はありがとう。煮物、おいしかった」
返事は、すぐに来た。
「また作っておくね」
その板に戻ると、私の投稿に返信がついていた。
クリームパンを頼んだ、あの人だった。
〈すみません。その夫婦は、私の両親かもしれません。〉
私は息を止めた。
数日前、私に「母です」と返してくれた人が、今、初めてその話を読んでいる。
返信は続いていた。
〈父が、母のところへ行けずにいるんです。〉
ここから、あのお願いにつながるのだ。
私は画面を見たまま、ゆっくり息を吐いた。
*
何と返そうか考えていると、もう一件、書き込みが届いた。
別の名前だった。
〈話の途中ですみません。お願いを書いてもいいですか。〉
私は入力欄を押した。
〈どうぞ。私にできることかはわかりませんが。〉
しばらくして、短い文章が届いた。
〈三日前に、この掲示板で少し嫌なことを書いてしまいました。〉
〈消したんですが、読んだ人がいます。〉
私は、画面を少し近づけた。
〈その人に、謝りたいんです。〉
(つづく)
* * *