第5話 / 全12話予定
第5話 聞こえていますか
〈あなたは今、どこにいるんですか。〉
送ってから、少し後悔した。
事情を聞くつもりが、居場所を問い詰めるような文章になっていた。
窓の外で、車が一台通った。
天井を、薄い光が横切った。
返信が来た。
〈自分の部屋です。実家からは、新幹線で三時間くらいのところです。〉
それだけ読んで、私は少し息をついた。
遠いけれど、行けない距離ではない。
〈しばらく、帰れていなくて。〉
続けて届いた文章を読んだ。
〈耳が、ほとんど聞こえなくなったんです。〉
*
机の上で、腕時計が動いていた。
耳に近づけなくても、部屋が静かなら、ときどき音が聞こえる。
私は時計から手を離した。
〈前に、お父さんから電話があったと書いていらっしゃいましたよね。〉
〈はい。今は、通話の内容を文字で読んでいます。うまく出ない言葉もありますけど。〉
〈そうだったんですね。〉
そのあとが、続かなかった。
「大変ですね」と書いて、消した。
「治るんですか」も、聞かなかった。
画面の向こうから、少しずつ文章が届いた。
〈父は、用件から話すのでわかりやすいんです。病院。手続き。何日に帰るか。〉
〈母は、途中から話すんです。〉
私は、その一文を読み返した。
〈「それでね」とか、「この前の、あれだけど」とか。〉
少しだけ、笑ってしまった。
うちの母も、そうだった。
〈それ、わかります。〉
初めて、迷わず書けた。
*
〈聞こえていたころ、母から電話が来たんです。仕事中で、出られなくて。〉
〈あとで話せばいいと思っていました。次の休みにでも。〉
私は、母に送りかけていたメッセージを思い出した。
「土曜日、家にいる?」
まだ送っていなかった。
〈そのあと、病気をして。今も、母とはメッセージをしています。会えば顔を見て話せます。〉
そこで、一度文章が途切れた。
〈でも、あのとき何を話したかったのか、聞いても母は覚えていないんです。〉
私はスマホを持ち直した。
〈たいしたことじゃなかったのよ、って。〉
しばらくして、続きが届いた。
〈たぶん、本当にそうだったんだと思います。〉
*
私は、あの公園の奥さんを思い出した。
「電車は昨日も走っていました」
そう言って、おじいさんを見ていた。
おじいさんは、私にだけ肩をすくめてみせた。
〈お母さん、公園で、お父さんに言っていました。〉
私はその言葉を、そのまま書いた。
〈お茶の時間が終わってから来るって怒っていました。お父さんが電車のせいにしたら、「電車は昨日も走っていました」って。〉
送信してから、余計なことだったかもしれないと思った。
聞こえない人に、私が聞いた声の話をしている。
けれど、返信はすぐに来た。
〈母です。〉
そのあとに、
〈間違いなく、母です。〉
私は、続きを書いた。
クリームパンは、ふたつあったこと。
昨日は、おじいさんにも半分あげたらしいこと。
「今日はそれぞれ。けんかになりますからね」と言っていたこと。
画面の向こうの人は、何度も短く返事をした。
〈言いそうです。〉
〈父、きっと袋をのぞいていたんでしょうね。〉
〈ありがとうございます。そこにいるところが、目に浮かびます。〉
私は、パンの袋を開ける奥さんの手を思い出そうとした。
少しゆっくりだった。
でも、自分で開けていた。
そのことも、書いた。
*
〈父、私にはそういう話をしないんです。〉
やがて、そう返信が来た。
〈母が何を食べたとか、書類がどうなったとか。必要なことは教えてくれます。〉
〈でも、半分取られたパンの話は、してくれない。〉
私は笑った。
昨日まで知らなかった家族のことが、少しずつわかる。
〈クリームパンを譲ってほしいと書いたのは、どうしてですか。〉
今なら聞ける気がした。
〈父が、電話で言っていたんです。あのパンがあれば、母のところへ寄ろうと思ったけど、売り切れていたって。〉
私は画面を見つめた。
私の知っている日には、売り切れていなかった。
最後のひとつを、おじいさんが買った。
〈それで、書いてみたんです。あのとき買えたら、行けたのかなと思って。〉
〈でも最初の投稿には、「明日」と書いてありましたよね。〉
〈はい。父が行かなかった日の、前の日の誰かに届けばと思って。〉
私は上へ戻った。
駅の名前も、店の名前もない、短いお願い。
〈どうして、届くと思ったんですか。〉
今度は、少し待った。
〈私も、ここでお願いを読んだからです。〉
*
新しい文章が届く前に、スマホが震えた。
母からだった。
私は一瞬、通話のボタンと掲示板の画面を見比べた。
それから電話に出た。
「もしもし」
「あ、起きてた?」
「起きてるよ」
「遅くにごめんね。返事がなかったから」
三週間前の、「今度、いつ帰ってくる?」のことだった。
「土曜日に行こうと思って。今、送ろうとしてた」
「あら、そう。何時?」
「お昼くらい」
「じゃあ、お昼はこっちで食べるのね」
「うん」
向こうで、何かがかさかさ鳴った。
「何してるの?」
「冷凍庫を見てる」
「今?」
「何があったかなと思って」
私は笑った。
電話を持ったまま、母が冷凍庫を開けている。
包みを持ち上げ、下をのぞいている姿が、見なくてもわかった。
「何でもいいよ」
「何でもいいが、一番困るのよ」
それも、何度も聞いた言葉だった。
「じゃあ、いつもの煮物」
「いつものって、どれ」
私は声を出して笑った。
*
電話は、七分ほどで終わった。
時計を直したことは、言いそびれた。
土曜日、つけていけばいい。
その板に戻ると、返信が増えていた。
〈すみません。長くなってしまって。〉
私は急いで打った。
〈母から電話が来ていました。土曜日に帰る約束をしました。〉
〈よかったです。〉
少し考えてから、書いた。
〈何を食べるかという話だけでした。〉
送ってから、これでは軽すぎると思った。
でも、画面の向こうから届いたのは、
〈そういう話、いいですよね。〉
という返事だった。
私は、土曜日の予定を手帳に書いた。
「実家。昼ごはん」
それだけで、一日の予定になった。
*
先ほどの話を、もう一度尋ねた。
〈ここで読んだお願いって、どんなものだったんですか。〉
〈短い書き込みでした。最初は、私に関係があるとは思わなかったんです。〉
少しして、文章が貼られた。
〈明日、公園でクリームパンを食べている夫婦に会ったら、二人が何を話していたか、娘さんに教えてあげてください。〉
私は手を止めた。
公園のベンチ。
車椅子。
紙袋に入った、ふたつのパン。
〈それ、いつ読んだんですか。〉
〈最初のお願いを書く前です。〉
私はスレッドの一番上まで戻った。
「明日のあなたへ」
最初にあるのは、クリームパンを譲ってほしいという書き込みだった。
その前には、何もなかった。
〈誰が書いたものですか。〉
返事を待つ間、机の上の時計が聞こえた。
やがて、一行だけ届いた。
〈あなたと、同じ名前の人です。〉
(つづく)
* * *