その板の連載小説

明日のあなたへ

1話ずつ、ゆっくりお読みください。

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第4話 / 全12話予定

第4話 用事がなくても

〈そちらでは、店はまだ開いていますか。〉 私は壁の時計を見た。 午後十一時十七分。 ミズノ時計店のシャッターは、もう下りている。 私が店を出たのは、七時を少し過ぎたころだった。 〈こちらでは、今日が最後の営業日でした。〉 送ってから、付け足した。 〈帰るときには、まだ何人かお客さんがいらっしゃいました。〉 返信を待つ間、何度も読み返した。 もう少し早く書き込んでくれていたら。 そう思いかけて、やめた。 このスレッドでは、何をもって早いというのか、まだわからない。 〈お父さんは、「夜ふかし時計」という名前で、このスレッドに書いていらっしゃいます。〉 今度は、すぐに返信が来た。 〈読みました。〉 続けて、もう一行。 〈父が、こんなふうに人と話すのを、初めて見ました。〉 私は上へ戻り、夜ふかし時計さんの文章を読んだ。 「五分くらいなら、待ちます」 「最後の日に、直すものを持ってきてもらえるのは、うれしいものですね」 息子さんには、どんなふうに見えたのだろう。 * 〈店を継がずに出たんです。〉 新しい書き込みが届いた。 〈そのとき、少し言い合いになりました。〉 少し、と書いてあった。 どのくらいの言い合いだったのか、私は聞かなかった。 〈別の仕事がしたくて。でも、そちらもうまくいかなくて。〉 そこで、しばらく止まった。 私は「お父さんは、きっと」と打った。 きっと、何だろう。 会いたがっている。 怒っていない。 帰ってきてほしい。 どれも、私にはわからなかった。 文章を消し、スマホを机に置いた。 * 湯を沸かして戻ると、夜ふかし時計さんの返信があった。 〈健一か。〉 たった四文字だった。 それまで親切に返事をしていた人が、急に、誰かのお父さんになった。 私は画面に触れずに待った。 〈そうです。〉 〈番号は変わっていない。〉 そのあと、書き込みが途切れた。 電話をかけているのかもしれない。 私は別のスレッドを開いた。 誰かが、夕飯の焼き魚を少し焦がしたと書いていた。 いつもなら笑って読めるのに、文字が頭に入ってこなかった。 * 十分ほどして、戻った。 息子さんの返信が増えていた。 〈番号は、知っています。〉 その下に、もうひとつ。 〈何の用だと言われると、言うことがなくなるんです。〉 私は、先ほど消した文章を思い出した。 何を思っているかなんて、本人にしかわからない。 けれど本人同士でも、わからないことがあるらしかった。 夜ふかし時計さんから返信が来た。 〈明日、棚を外す。〉 続けて、 〈一人では危ないので、手を貸してほしい。〉 私は、日付を確かめた。 夜ふかし時計さんの明日は、息子さんにとっていつなのだろう。 同じことを考えたのか、息子さんが尋ねた。 〈何日のことですか。こっちは、店を閉めた日の夜です。〉 少しして、返事が届いた。 〈そっちの明日でいい。十時には店にいる。〉 * 翌朝、腕時計をつけて家を出た。 昨日まで気にもしていなかった商店街への曲がり角が、目に入った。 十時には、二人とも店にいるのだろうか。 私は駅へ向かった。 仕事中も、何度かその板を開いた。 返信は増えていなかった。 昼休みも。 帰りの電車でも。 書き込みがないだけで、こんなに落ち着かなくなるとは思わなかった。 * 店の前を通ったのは、六時半ごろだった。 シャッターが半分ほど開いていた。 中から、段ボールを動かす音がした。 入口の脇に、昨日の紙が貼ってあった。 「まだ開いています」の行だけ、丁寧に折り込まれていた。 私は少し離れたところで足を止めた。 「そっち、持って」 中から声がした。 「そっちって、どっち」 「お前の右」 「最初からそう言ってよ」 木のこすれる音がして、二人分の息が漏れた。 それから、 「置くよ」 「まだ。指がある」 「ああ、ごめん」 少しして、重いものが床に着く音がした。 私はそのまま、通り過ぎようとした。 「時計の方」 振り返ると、店主が入口で腰をかがめていた。 「具合、どうですか」 私は手首を上げた。 「ちゃんと動いています」 「それはよかった」 その後ろから、男の人が顔を出した。 私と同じくらいか、少し上に見えた。 袖に、白いほこりがついていた。 「紙を書いてくれた人?」 店主がうなずいた。 男の人は店から出てきて、頭を下げた。 「昨日は、どうも」 何に対してのお礼なのか、お互い説明しなかった。 「棚、大変そうですね」 「これ、父が自分で作ったんです。外す順番を忘れたっていうから」 店の奥から声がした。 「忘れてない。思い出してるんだ」 男の人は、肩についたほこりを払った。 「ずっと、これです」 そう言った顔が、少し笑っていた。 * 店の中は、昨日とは違っていた。 壁の時計がいくつも外され、四角や丸の跡が残っていた。 こんなにも色が違うのかと思った。 カウンターの端には、湯飲みがふたつ置いてあった。 片方には、お茶がまだ半分残っていた。 店主は工具を探しながら言った。 「腹が減ったな」 「昼、食べたでしょう」 「もう夜だ」 男の人が腕時計を見た。 「ああ、ほんとだ」 二人とも、こちらを見ていなかった。 私は小さく会釈して、店を出た。 * その夜、息子さんから書き込みがあった。 〈今日、行ってきました。〉 私はすぐに返信した。 〈お会いできてよかったです。〉 〈こちらこそ。結局、一日かかりました。〉 続けて、少し長い文章が届いた。 〈話そうと思っていたことは、ほとんど話せませんでした。謝るつもりで行ったのに、棚の外し方でもめて、昼を食べて、また片づけて。〉 私は、ふたつの湯飲みを思い出した。 〈帰りに、また来いと言われました。〉 その下に、一行。 〈もう棚はないのに。〉 私は笑った。 今度は、返す言葉を探さなくてもよかった。 〈次は、お茶が冷める前に飲めそうですね。〉 * しばらくして、夜ふかし時計さんが現れた。 〈お世話になりました。〉 〈私は、時計を直していただいただけです。〉 〈その時計、大事にしてください。〉 机の上に置いた腕時計を見た。 五年も放っておいたものだった。 それでも、新しい電池を入れたら、また動いた。 〈母にもらったものなんです。今度、つけているところを見せようと思います。〉 送信してから、母とのやり取りを開いた。 最後のメッセージは、三週間前だった。 「今度、いつ帰ってくる?」 私の返事は、 「予定わかったら連絡する」 そのままになっていた。 時計を持って帰ろう。 そう思って、週末の予定を確かめた。 * その板へ戻ると、返信が一件増えていた。 夜ふかし時計さんではなかった。 最初に、クリームパンを譲ってほしいと書いた人だった。 〈お母さんに、会いに行かれるんですね。〉 〈はい。週末にでも。〉 返信は、すぐには来なかった。 私は、母へのメッセージを書き始めた。 「土曜日、家にいる?」 送信する前に、掲示板の画面へ戻った。 新しい文章があった。 〈よかった。〉 その下に、もう一行。 〈私も最初は、次の休みに電話しようと思っていたんです。〉 私は、その人の以前の書き込みを読み返した。 「父から電話がありました」 「母に怒られたって、うれしそうでした」 お父さんとも、お母さんとも、話せる人だと思っていた。 けれど、私が尋ねたことには、一度も答えていなかった。 なぜ、自分でお父さんに連絡しなかったのか。 私は、ゆっくり打った。 〈あなたは今、どこにいるんですか。〉 (つづく)
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