第3話 / 全12話予定
第3話 まだ開いています
〈私の画面では、このスレッドの投稿は全部、昨日の日付です。〉
「夜ふかし時計」の書き込みを、三度読んだ。
入力欄には、まだ私の質問が残っていた。
〈では、私の明日のことも知っているんですか。〉
それを消して、別のことを聞いた。
〈夜ふかし時計さん。そちらは今、何日ですか。〉
返ってきた日付は、私の二日先だった。
パン屋のおじいさんの家族は、一日先。
夜ふかし時計さんは、さらにその先。
紙に書いてみた。
私の今日。
あの人の今日。
夜ふかし時計さんの今日。
横に並べた三つの日付を見ていると、学校を休んだ日に、授業の進み具合を教えてもらったときのことを思い出した。
自分がまだ開いていないページを、誰かはもう読んでいる。
〈時刻は、十一時四十二分です。〉
夜ふかし時計さんが付け足した。
壁の時計も、同じ時刻だった。
*
〈もし本当に二日前なら、そちらでは、うちはまだ開いているんですね。〉
しばらくして、その一文が届いた。
〈お店ですか?〉
〈時計屋です。昨日、閉めました。〉
私は紙の日付を指でたどった。
この人の昨日は、私の明日だった。
〈閉店されたんですか。〉
〈はい。四十三年やりました。〉
四十三年。
私がこの人の名前を掲示板で見かけるようになったのは、ほんの最近だ。
誰かの夕飯に「うまそうですね」と返したり、難しい漢字に「降参」と書いたりする人だった。
その名前の向こうに、四十三年分の仕事があった。
〈お疲れさまでした。〉
打ってから、少し迷った。
私の方では、まだ終わっていない。
けれど、そのまま送った。
〈ありがとうございます。最後まで、いつもどおりでした。〉
続けて、もうひとつ。
〈いつもどおりすぎて、誰にも気づかれませんでしたが。〉
*
店の名前を聞くと、「ミズノ時計店」と返ってきた。
駅の南側。
古い映画館の向かい。
どちらも知っていた。
映画館は、今は駐輪場になっている。
その向かいに、小さな時計屋があった。
前を何度も通っていたけれど、入ったことはなかった。
私は机の引き出しを開けた。
使わなくなった鍵。
いつのものかわからない保証書。
片方だけのイヤホン。
その奥に、腕時計があった。
就職したとき、母が買ってくれたものだった。
電池が切れたまま、ずっとしまっていた。
スマホで時間がわかるから、不便はなかった。
取り出すと、革のベルトが思っていたより硬くなっていた。
〈明日、電池交換をお願いしに行ってもいいですか。〉
返信は、少し遅かった。
〈そちらの明日、ですね。〉
〈はい。仕事の帰りになります。〉
〈六時までです。〉
間を置いて、もう一行増えた。
〈五分くらいなら、待ちます。〉
*
翌日、駅に着いたのは五時五十八分だった。
走った。
こんな日に限って、改札の前で鞄の持ち手が人に引っかかった。
謝って、また走った。
映画館だった場所の向こうに、小さな明かりが見えた。
シャッターは、まだ下りていなかった。
ドアに手をかけたとき、腕時計のない手首を見てしまった。
中にいた男の人が、壁の時計を見た。
「六時四分」
私は息を整えながら、頭を下げた。
「すみません。電池交換、まだ大丈夫ですか」
「どうぞ」
白髪の男の人だった。
思っていたより背が高く、紺色の作業着を着ていた。
鞄から時計を出すと、カウンターに柔らかい布を敷いてくれた。
「長いこと、止まっていました?」
「たぶん、五年くらい」
「開けてみますね」
それから、小さな工具を取った。
私は、その手元を見ていた。
この人は、まだ知らないのだ。
昨夜、私と話したことも。
自分が「五分くらいなら、待ちます」と書いたことも。
ここではまだ、明日のことだった。
*
壁には、時計がたくさん掛かっていた。
丸いもの。
四角いもの。
振り子のあるもの。
秒針の音が少しずつずれて、部屋の中を細かく刻んでいた。
カウンターの端に、閉店のお知らせがあった。
葉書ほどの紙だった。
今日の日付と、長年のご愛顧へのお礼。
文字は丁寧だったけれど、外からは見えない場所に置かれていた。
「今日までなんですね」
声をかけると、店主は手元を見たままうなずいた。
「ええ。ちょうどよかったですね」
「外には、貼らなかったんですか」
「大げさにするほどでもないので」
小さなねじが、皿の中に置かれた。
「閉店と書くと、もう終わったと思って帰る人もいますしね」
私は、走ってきた道を振り返った。
夕方の商店街を、人が通っていた。
誰も、こちらを見ていなかった。
「最後まで、開いているってわかる方がいいんですね」
「まあ、そうですね」
カウンターの内側に、紙と太いペンがあった。
私は、少しためらってから言った。
「一枚、書いてもいいですか」
店主が顔を上げた。
*
書いた紙を見せると、店主は眼鏡を少しずらした。
〈四十三年間、ありがとうございました。
本日が最後の営業日です。
まだ開いています。〉
「もう六時、過ぎていますよ」
「そうなんですけど」
余計なことをしたかもしれない。
紙を引っ込めかけると、店主が手を出した。
「テープは、そっちです」
*
最初に立ち止まったのは、買い物袋を提げた女の人だった。
紙を読んで、店の中をのぞいた。
「えっ、今日で終わり?」
店主が工具を置いた。
「お世話になりました」
「ちょっと。そういうことは、先に言ってくれないと」
女の人は入ってくるなり、腕を出した。
「これ、ここで買ったのよ」
「知っていますよ。ベルトも二回替えました」
「三回」
「三回でしたかね」
二人とも笑った。
次に来た男の人は、何も持っていなかった。
「前に、母の時計を直してもらって」
それだけ言って、少し黙った。
店主は、続きを急かさなかった。
私はカウンターの端へ移った。
六時半を過ぎたころ、店主が私を呼んだ。
布の上で、腕時計の秒針が動いていた。
「電池だけで大丈夫でした」
耳に近づけると、小さな音がした。
「よかった」
思っていたより、ほっとした声が出た。
店主はベルトを軽く曲げて、状態を確かめた。
「まだ使えますよ」
*
家に帰って、その板を開いた。
何から書こうか考えているうちに、夜ふかし時計さんの返信が表示された。
〈変なことを聞きますが、今日、紙を書いてくれましたか。〉
私は、椅子を引いた。
〈はい。勝手なことをして、すみません。〉
〈いえ。〉
そのあと、少し間があった。
〈昨日の閉店のことを、思い出していました。六時に閉めたはずなのに、七時過ぎまで人がいたことも覚えているんです。〉
私は腕時計を見た。
秒針は、止まらずに進んでいた。
〈あの紙、持って帰りました。捨てられなくて。〉
何と返したらいいかわからず、私はしばらく画面を見ていた。
やがて、夜ふかし時計さんが書いた。
〈最後の日に、直すものを持ってきてもらえるのは、うれしいものですね。〉
腕から時計を外し、机の上に置いた。
今夜は、引き出しにしまわなかった。
*
寝る前に、もう一度スレッドを開いた。
新しい返信が、一件増えていた。
初めて見る名前だった。
〈ミズノ時計店の話でしょうか。〉
続けて、もう一件。
〈息子です。父とは、もう長いこと話していません。〉
私は身を起こした。
〈閉めることも、ここで初めて知りました。〉
投稿の時刻は、午後十一時十七分。
そして、その人はこう尋ねていた。
〈そちらでは、店はまだ開いていますか。〉
(つづく)
* * *