第2話 / 全12話予定
第2話 遅いですよ
スマホの日付を確かめた。
間違っていない。
掲示板のほかの投稿も、今日の日付になっている。
「明日のあなたへ」の投稿だけが、一日先にあった。
画面を引っぱって、読み込み直した。
何も変わらなかった。
〈投稿の日付が、明日になっています。〉
送ってから、もう一文を足した。
〈私の画面だけでしょうか。〉
部屋は静かだった。
冷蔵庫が、思い出したように低い音を立てた。
しばらくして、返信がついた。
〈こちらでは、今日の日付です。〉
私は画面の上にある時計を見た。
午後十一時十七分。
〈そちらは、もう日付が変わっていますか?〉
〈いいえ。まだ十一時十七分です。〉
同じ時刻だった。
入力欄に「どちらにお住まいですか」と打って、消した。
初めて書き込んだ日に、知らない人の住んでいる場所まで聞こうとしている。
スマホを置いた。
明日になれば、普通の日付になる。
そうしたら、こんなに気にならなくなるかもしれない。
布団に入ってから、もう一度だけ画面を見た。
返信は増えていなかった。
*
翌日、帰り道でパン屋に寄った。
確かめに来た、というほどのことではない。
くるみパンを、もうひとつ食べたかった。
そういうことにして、ドアを押した。
「今日は、ふたつですか」
昨日と同じ店員が、トレーを見て言った。
「おいしかったので」
「よかった」
袋にパンを入れながら、店員が笑った。
「昨日の方も、喜んでいらっしゃいましたよ」
顔を上げた。
「おじいさんですか」
「ええ。今日、お礼を言っておいてくださいって」
私は財布から出しかけた硬貨を、いったん戻した。
「今日も、来られたんですか」
「奥さまとご一緒に」
奥さんは、生きていた。
昨日、勝手に思い浮かべてしまったお墓の景色を、私は頭の中から片づけた。
「しばらく入院されていて。こちらへ戻られたんですって」
店員は、通りの向こうへ目を向けた。
小さな公園があった。
その奥に、薄いれんが色の建物が見える。
*
おじいさんは、公園のベンチにいた。
隣には、車椅子の女の人がいた。
膝に置いた紙袋の口を、ゆっくり開けていた。
通り過ぎるつもりだった。
けれど、おじいさんが私に気づいて、紺色の帽子を上げた。
「昨日の」
女の人が顔を向けた。
「パンの方?」
パンの方。
そう呼ばれたのは、初めてだった。
「ありがとうございました。半分、いただきました」
「半分?」
「この人が、横でじっと見ているものですから」
「そんなつもりじゃなかったんだけど」
おじいさんは、帽子の縁を両手でなぞった。
奥さんは知らん顔で、紙袋からクリームパンを取り出した。
今日は、ふたつ入っていた。
「今日はそれぞれ。けんかになりますからね」
私は笑った。
おじいさんも笑った。
昨日の「好きだった」という言い方だけで、私はずいぶん遠いところまで想像してしまっていた。
*
奥さんが建物の入口にいる職員へ手を振ったとき、おじいさんが小さな声で言った。
「昨日、やっと顔を出せましてね」
「そうだったんですか」
「家に帰りたいって言われると思うと、どうも足が向かなくて」
帽子の縁をなぞる手が、止まった。
「私ひとりでは、まだ迎えられないものですから」
奥さんは職員と話していた。
明日持ってきてほしいものがあるらしく、指を折りながら何かを数えていた。
「行かなきゃと思って、毎日、駅までは来ていたんです」
あのパン屋は、駅からこの公園へ来る途中にある。
「昨日も、パンがなければ帰ろうと思っていたんですよ。手ぶらじゃ、なんですから」
私は、返す言葉を探した。
あのとき、私が買っていたら。
おじいさんは空のトレーを戻して、家へ帰っていたのだろうか。
「……怒られましたか」
聞くと、おじいさんは少し笑った。
「ええ」
奥さんの方を見た。
「遅いですよ、って」
その声が聞こえたらしく、奥さんが振り返った。
「本当に遅いんですよ。お茶の時間が終わってから来るんですから」
「電車がね」
「電車は昨日も走っていました」
おじいさんは、私にだけ見えるように小さく肩をすくめた。
私は、くるみパンの入った袋を持ち直した。
「では、また」
言ってから気づいた。
この人たちに、また会うつもりでいる。
*
帰宅して、その板を開いた。
例の投稿は、今日の日付になっていた。
ようやく日付の方が追いついたのに、もう、見間違いだったとは思えなかった。
〈今日、お父さんとお母さんにお会いしました。パン屋の向かいの公園で。〉
少し考えて、続けた。
〈クリームパン、今日はふたつありました。〉
送信して、湯を沸かした。
マグカップを持って戻ると、返信がついていた。
〈父から電話がありました。母に怒られたって、うれしそうでした。〉
その投稿の日付は、また明日だった。
私は椅子に座った。
〈どうして、私があのパン屋へ行くとわかったんですか。〉
今度は、すぐに返信が来た。
〈わかりませんでした。〉
続けて、もうひとつ。
〈誰も読まないかもしれないと思っていました。〉
私は最初のお願いを読み返した。
駅の名前も、店の名前もない。
こんな書き方で、誰かに届くと思ったのだろうか。
けれど、届いた。
〈なぜ、ご自分でお父さんに連絡しなかったんですか。〉
送信した直後、聞きすぎたと思った。
家族にしかわからない事情もある。
私は、パンをひとつ譲っただけだ。
〈すみません。答えにくければ、大丈夫です。〉
しばらくして、返事が来た。
〈ありがとうございます。うまく説明できなくて。〉
その下に、一行あった。
〈あなたの「今日」が、私にはもう終わっているんです。〉
マグカップから手を離した。
廊下で、誰かの帰ってくる足音がした。
鍵が回り、ドアが閉まった。
私は入力欄を押した。
〈では、私の明日のことも知っているんですか。〉
送信する前に、新しい返信が表示された。
別の名前だった。
「夜ふかし時計」。
見覚えがあった。
いつも夜遅く、誰かの投稿に短い返事をつけている人だ。
その人は、こう書いていた。
〈横からすみません。日付の話が気になって、ずっと読んでいました。〉
そして、もう一行。
〈私の画面では、このスレッドの投稿は全部、昨日の日付です。〉
(つづく)
* * *