第1話 / 全12話予定
第1話 最後のクリームパン
寝る前に、その板を開く。
いつからか、それが一日の終わりになっていた。
知らない人が、今日食べたものの話をしている。 難しい漢字を出す人がいる。 誰かの冗談に、別の誰かが律儀に返事をしている。
私は一度も書き込んだことがない。
それでも、何日か見かけない名前があると、少し気になった。
その夜、新しいスレッドがひとつ増えていた。
「明日のあなたへ」
開くと、短い文章があった。
〈明日、駅前のパン屋で、最後のクリームパンを譲ってください。〉
その下に、もう一行。
〈代わりに、くるみパンがおすすめです。〉
「そこまで決めるんだ」
声に出してから、ひとりで笑った。
どこの駅なのかも書いていない。 誰に頼んでいるのかもわからない。
返信は、ゼロだった。
*
翌日は、帰りが遅くなった。
駅前のパン屋には、まだ明かりがついていた。昼をろくに食べていなかったことを思い出して、ドアを押した。
棚には、食パンが二斤。 くるみパンが三つ。 クリームパンが、ひとつ。
トングを持ったまま、手が止まった。
ガラス越しに、歩道を走る自転車が見えた。昨日の投稿を、頭の中でもう一度読んだ。
隣に、人が立った。
紺色の帽子をかぶったおじいさんだった。 空のトレーを持って、クリームパンを見ていた。
「あ、どうぞ」
考えるより先に言っていた。
おじいさんは私とパンを交互に見た。
「いいんですか」
「私は、こっちなので」
くるみパンを取ってみせると、ようやくトングが動いた。
レジで、おじいさんが店員に言った。
「袋、別にしてもらえますか」
パンは、ひとつしかない。
店員は何も聞き返さず、小さな紙袋に入れた。
*
店を出ると、おじいさんが傘立ての横にいた。
「ありがとうございました」
帽子を取り、胸の前で持った。
「これ、妻が好きだったんです」
私は、紙袋を見た。
何か言わなければと思ったけれど、こういうとき、何を言えばいいのかわからない。
おじいさんは袋の口を丁寧に折った。
「今日は、怒られに行こうと思いまして」
「……怒られに?」
「ええ。だいぶ、放っておいたので」
そう言って、初めて少し笑った。
駅とは反対の道へ、ゆっくり歩いていった。
家に着いてから、くるみパンを食べた。
香ばしくて、思ったより柔らかかった。 もうひとつ買えばよかったと思った。
*
その夜、私は例のスレッドを開いた。
返信は、まだなかった。
入力欄を押すと、画面の半分がキーボードになった。 いつも読んでいる場所なのに、急によその家へ上がり込んだような気がした。
〈今日、クリームパンを譲りました。〉
それだけ打って、一度消した。
駅前のパン屋なんて、いくらでもある。 最後のひとつを譲る人だって、いるだろう。
少し迷って、今度はこう書いた。
〈偶然だと思いますが、今日、おじいさんにクリームパンを譲りました。くるみパンもおいしかったです。〉
送信した。
自分の文章が、ほかの人と同じ場所に並んだ。
落ち着かなくて、いったん画面を閉じた。 すぐに、また開いた。
返信がついていた。
〈よかった。あの人、今日はちゃんと帰れたんですね。〉
帰れた。
買えた、ではなく。
私はゆっくり打った。
〈あの方のお知り合いですか?〉
今度は、なかなか返信がなかった。
歯を磨いて戻ると、短い一文が増えていた。
〈母が、ずっと待っていたので。〉
それを読んで、少し安心した。
なんだ。家族の話だったのか。 どういう事情か知らないけれど、あの人は奥さんのところへ帰ったのだ。
〈会えていたらいいですね。〉
そう返して、スマホを充電器につないだ。
画面が暗くなる直前、もうひとつ返信が届いた。
〈はい。明日、父に聞いてみます。あなたが譲ってくれたかどうか。〉
私は、充電器からスマホを外した。
今日のことだ。
クリームパンを譲ったのは、今日。
最初の投稿の日付を確かめようと、画面を上へ戻した。
昨夜は気づかなかった。
投稿日時は、明日になっていた。
(つづく)
* * *