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投稿者 sonohen - 6 hours ago
第7話 消したあとに残るもの
〈その人に、謝りたいんです。〉
私は、その前の書き込みを読み返した。
三日前に、嫌なことを書いた。 その文章は消した。 けれど、読んだ人がいる。
〈どんなことがあったんですか。〉
返信を待つ間に、お茶を一口飲んだ。 もう、すっかり冷めていた。
〈絵を載せた人がいました。〉
少しして、次の文章が届いた。
〈駅前の風景を、鉛筆で描いた絵です。〉
私は、その投稿を覚えていた。
*
小さなスケッチブックを、机の上で撮った写真だった。
駅へ続く道。 自転車の並ぶ歩道。 道路の向こうの、古い店。
建物の線が少し傾いていた。 通りの奥は、実際より狭く見えた。
添えられていた文章も、覚えている。
「久しぶりに描いてみました。難しいですね」
私は画像を大きくして見た。
知っている通りだった。 パン屋も、端の方に描かれていた。
そのとき、何か返そうかとは思った。
けれど、絵のことはよくわからない。 「上手ですね」と書くのも、何だか違う気がした。
結局、そのまま画面を閉じた。
*
〈「写真を撮れば済むのに」と書きました。〉
私は、持っていたカップを置いた。
〈そのあとに、「人に見せるなら、もう少し練習してからでは」と。〉
私はそこまで読んで、返信欄から指を離した。
そんな返事がついていたことは、知らなかった。
〈相手の方は、何と?〉
〈「すみません」と。それだけです。〉
〈その返事を見て、自分の書いたものを消しました。〉
しばらくして、また文章が届いた。
〈次に見たときには、絵もなくなっていました。〉
私は、スレッドの一覧へ戻った。
見覚えのあるタイトルを探した。 前にはあった場所に、もうなかった。
*
〈あの絵、私も見ました。〉
そう書くと、すぐに返事が来た。
〈そうですか。〉
〈駅前のパン屋が描いてありましたよね。〉
〈はい。〉
そのあと、しばらく書き込みが途切れた。
私は、画像を拡大したときのことを思い出していた。
店先に、自転車が一台あった。 前かごから、買い物袋が少しはみ出していた。
写真なら気に留めなかったかもしれない。 鉛筆で一本ずつ描かれた線だったから、私はそこを見た。
〈私、何も返さなかったんです。〉
打ってから、消そうか迷った。
今は、私の話をするところではない。
けれど、そのまま送った。
〈見ていたんですけど、何と書けばいいかわからなくて。〉
*
〈このスレッドなら、まだ書いていない日に届くでしょうか。〉
相手が尋ねた。
〈自分に、書くなと言えたらと思って。〉
私は、画面の日付を確かめた。
その人の今日は、私と同じだった。 三日前には、もう戻れない。
でも、別の日にいる人なら。
クリームパンを買えなかったおじいさんは、買えたことになった。 誰にも気づかれず閉めたはずの時計屋には、お客さんが来た。
あの返事も、なかったことにできるのだろうか。
私は入力欄に、
〈できるかもしれません〉
と打った。
そのとき、新しい返信が表示された。
夜ふかし時計さんだった。
〈うちの閉店の話、覚えていますか。〉
〈はい。〉
〈お客さんが来てくれたことも、一人で閉めたことも、今でも両方覚えています。〉
私は、打ちかけの文章を見た。
しばらくして、もう一行届いた。
〈その方の気持ちが、どうなるかはわかりません。〉
私は入力欄を空にした。
*
〈先に、謝る文章を書きませんか。〉
私はそう送った。
〈届くかどうかはわからないですけど、元の絵を見た人なら、誰のことかわかると思います。〉
返事は、なかなか来なかった。
時計の針が、日付の変わる方へ進んでいた。
やがて、長い文章が届いた。
仕事で嫌なことがあったこと。 自分も絵を描いていたこと。 以前、誰かに似たことを言われたこと。
最後に、「そんなつもりではありませんでした」と書いてあった。
私は何度か読んだ。
そして、尋ねた。
〈どんなつもりだったんですか。〉
送ったあと、少し怖くなった。
責めたいわけではなかった。 でも、そこを飛ばすと、また同じ文章になる気がした。
長い間、返信はなかった。
*
〈少し、嫌な気持ちにさせたかったんだと思います。〉
その一文が、画面に現れた。
私は読み終えても、すぐには返せなかった。
続けて、もう一文。
〈でも、絵を消してほしかったわけではありません。〉
私は、消えたスケッチブックを思い浮かべた。
書く人が、どこまでのつもりだったか。 読む人に、どこまで届くか。
同じ文章でも、その二つは揃わない。
〈そのことを、ご本人に書いた方がいいと思います。〉
今度は、迷わず送った。
*
しばらくして、謝罪の文章が投稿された。
〈駅前の風景を描いた絵に、嫌な返信をした者です。〉
〈絵について話したかったのではなく、あなたを嫌な気持ちにさせるために書きました。すみませんでした。〉
〈自分の返信だけ消して、何も言わずにいました。絵まで消えてから、ひどいことをしたと思いました。〉
〈また描いてほしいと頼むのも、許してくださいと言うのも、今の私がお願いすることではないと思います。〉
〈もし読んでいらしたら、お詫びだけでもお伝えしたいです。〉
私は最後まで読んだ。
「これで大丈夫です」とは、書けなかった。
代わりに、
〈読みました。〉
と返した。
*
翌朝も、昼も、相手からの返信はなかった。
その間に、ほかのスレッドは動いていた。
誰かが、なくしたと思っていた鍵を見つけた。 誰かが、漢字の問題を間違えた。 昨日の夕飯の話に、今朝になって返事がついた。
私は、その中にいつもの名前を探した。
絵を描いた人の名前は、なかった。
夕方、謝った人が書き込んだ。
〈やっぱり、もう見ていないんでしょうか。〉
私は、
〈見ていても、すぐには返せないかもしれません〉
と打った。
それ以上は書かなかった。
*
夜になって、私はあの絵について投稿した。
謝罪の文章への返事ではなく、絵を描いた人へ。
〈駅前の絵、私も見ていました。〉
〈パン屋の前の自転車が、よく覚えています。かごから買い物袋が出ていましたよね。〉
〈あの道をよく通るので、知っている場所を誰かも見ているんだなと思って、画像を大きくして見ました。〉
〈そのとき、そう書けばよかったです。〉
送信してから、読み返した。
上手とも、下手とも書かなかった。 私が見たことだけだった。
*
返事が来たのは、寝る支度を終えたころだった。
絵を描いた人の名前だった。
〈袋、気づいてくれたんですね。〉
私は椅子に座り直した。
〈母の自転車です。買い物が終わるのを待ちながら描いていました。〉
もう一度、あの絵を思い浮かべた。
店先に置かれた自転車。 はみ出した買い物袋。 描き終わるまで待ってくれたかもしれない、お母さん。
画面の中では見えなかった時間が、少しだけわかった。
その人は、続けて書いた。
〈お詫びも読みました。〉
〈でも、今はうまく返せません。〉
少しして、謝った人から返信がついた。
〈読んでくださって、ありがとうございます。〉
それだけだった。
私はスマホを机に置いた。
*
もう寝ようとしたとき、再び返信が届いた。
絵を描いた人だった。
〈ひとつ、聞いてもいいですか。〉
〈あの画像を、保存した方はいませんか。〉
私は、画面に手を伸ばした。
〈投稿を消したあと、元の絵も捨ててしまったんです。〉
その下に、短い一文があった。
〈母の自転車が描いてあったこと、今、思い出しました。〉
私はスレッドを上へ戻した。
私の今日。 あの人の今日。 夜ふかし時計さんの今日。
違う日付の人がいる。
あの絵が、まだ消えていない日も。
私は入力欄を押した。
〈今、こちらより三日前にいる方は、いませんか。〉
(つづく)
投稿者 sonohen - 7 hours ago
振り返り
折り返しに、ここまでのお話を。

『明日のあなたへ』は、全12話で完結する物語です。
公開中の第6話で、ちょうど折り返しになりました。 ここで一度、登場人物と、これまでの出来事を振り返ります。
※第1〜6話の内容に触れています。これから本編を読まれる方は、ご注意ください。
*
■ 始まりは、最後のクリームパン
寝る前に、その板を読む。 一度も書き込んだことのなかった「私」は、ある夜、不思議なお願いを見つけます。
〈明日、駅前のパン屋で、最後のクリームパンを譲ってください。〉
翌日、「私」は本当に、最後のクリームパンをおじいさんに譲りました。
それを報告するため、初めて掲示板に書き込みます。
ところが、相手の投稿の日付は、明日になっていました。
■ パンを届けたかった相手
おじいさんには、入院を経て施設へ移った妻がいました。
「家に帰りたい」と言われても、まだ一人では迎えられない。 そう思うと会いに行けず、駅まで来ては引き返していたのです。
クリームパンを買えた日、おじいさんは妻のもとへ向かいました。
翌日、「私」が公園で会った二人は、パンの分け方や、お茶の時間に遅れたことで言葉を交わしていました。
その、どこにでもありそうな夫婦の会話を、聞きたい人がいました。
最初のお願いを書いた、二人の娘さんです。
■ 時計屋の、最後の営業日
スレッドには「夜ふかし時計」さんも現れます。
四十三年続けた、ミズノ時計店の店主でした。
店主にとっては、すでに終わった最後の営業日。 けれど「私」にとっては、まだ明日のことでした。
「私」は、母にもらったまま長く止めていた腕時計を持って、店へ向かいます。
そして、店先に一枚の紙を貼りました。
〈四十三年間、ありがとうございました。 本日が最後の営業日です。 まだ開いています。〉
紙を読んだお客さんたちが、店に入ってきました。
その後、スレッドを読んだ息子の健一さんも現れます。 父と長く話していなかった健一さんは、棚を外す手伝いをきっかけに、店を訪ねました。
話そうと思っていたことは、ほとんど話せないまま。 それでも、一緒に働き、食事をして、父は「また来い」と言いました。
*
■ ここまでの、人のつながり

   

■ 娘さんが、聞きたかった話
最初のお願いを書いた娘さんは、離れた場所に暮らしていました。
病気で耳がほとんど聞こえなくなり、今は電話の内容を文字で読んだり、メッセージを交わしたりしています。
娘さんの心に残っていたのは、聞こえていたころ、出られなかった母からの電話でした。
何の話だったのか、母も覚えていない。 たぶん、本当に何でもない話だったのでしょう。
「私」は、公園で聞いた夫婦のやり取りを、そのまま伝えました。
〈母です。間違いなく、母です。〉
娘さんから、そんな返事が届きます。
父から届く必要な連絡だけではわからない、母の言い方や、二人の様子。 「私」が何気なく聞いていた会話は、娘さんにとって、知りたかった家族の日常でした。
■ まだ書いていない、自分の投稿
ここで、新たな不思議がわかります。
娘さんが最初のお願いを書くきっかけになったのは、こんな書き込みでした。
〈明日、公園でクリームパンを食べている夫婦に会ったら、二人が何を話していたか、娘さんに教えてあげてください。〉
投稿者は、「私」と同じ名前。
日付は、まだ来ていない土曜日でした。
「私」は土曜日、実家へ帰ります。 母と昼ごはんを食べ、腕時計を選んでくれたときの話を聞きました。
そして、その夜。 「私」は、娘さんから見せてもらったお願いを、自分の手で書いて送ります。
すると、返信が届きました。
〈すみません。その夫婦は、私の両親かもしれません。〉
すでに話した相手が、今、初めてその話を読んでいる。
お願いを受け取った「私」が、今度は、そのお願いのきっかけを届けていました。
*
■ お願いは、輪のようにつながっています

   

「私」が体験した順番では、
① パンを譲ってほしいというお願いを読む
② パンを譲り、公園で夫婦に会う
③ 夫婦の会話を娘さんへ伝える
④ 自分も、お願いを書く
となります。
けれど娘さんは、④の投稿を先に読んでいました。
このスレッドでは、書いた順番と、相手が読む順番が、同じとは限らないようです。
■ わかっていること、まだわからないこと
ここまでに起きているのは、違う日を過ごしている人同士が、同じスレッドで言葉を交わすということです。
最初に日付を確かめたとき、娘さんは「私」の一日先、夜ふかし時計さんは二日先にいました。
誰かが書き込みを読み、行動したことで、出来事が変わることもありました。
ただし、時計店の店主には、静かに一人で店を閉めた記憶も、お客さんが来てくれた記憶も残っています。
なぜ日付がずれるのか。 誰と、いつ、つながるのか。 出来事が変わったとき、何が残るのか。
その仕組みは、まだ明らかになっていません。
*
読むだけだった「私」は、パンを譲り、店先に紙を貼り、聞いた会話を誰かに伝えるようになりました。
そして、自分の母にも会いに帰りました。
不思議な出来事の合間に、何でもない会話が少しずつ増えています。
そんなスレッドに、新しいお願いが届きました。
〈三日前に、この掲示板で少し嫌なことを書いてしまいました。〉
〈消したんですが、読んだ人がいます。〉
〈その人に、謝りたいんです。〉
言葉は、日付を越えて届く。 では、一度届いてしまった言葉には、何ができるのでしょうか。
次回、第7話。 『明日のあなたへ』は、ここから後半へ進みます。
投稿者 sonohen - 11-01-2026, 12:24 PM
第6話 まだ書いていない言葉

〈あなたと、同じ名前の人です。〉

私は、自分の名前が表示されているところを見た。

本名ではない。
初めて返信するとき、少し考えてつけた名前だった。

同じ名前の人がいても、おかしくはない。

〈その書き込み、今も見られますか。〉

〈はい。〉

〈日付を教えてもらえますか。〉

返信を待つ間、私は手帳を開いた。

返ってきたのは、土曜日の日付だった。

「実家。昼ごはん」

私の字で、そう書いてある日の夜。

まだ、来ていない日だった。

*

その人は、画面の画像を貼ってくれた。

確かに、私の名前だった。

〈明日、公園でクリームパンを食べている夫婦に会ったら、二人が何を話していたか、娘さんに教えてあげてください。〉

文章の下には、もう一行あった。

〈うまく説明しなくても大丈夫です。覚えていることを、そのまま。〉

私は、それを声に出して読んだ。

自分が書きそうな言葉なのか、よくわからなかった。

ただ、そこに書かれたことを、私はもうしていた。

公園で会った二人の話を伝えた。
その人は、「母です」と返してくれた。

それは、このお願いを読んだからではなかった。

〈私、まだこれを書いていません。〉

少しして、返事が来た。

〈そうなんですか。〉

続けて、

〈でも、書いていなくても、教えてくれたんですね。〉

私は画面を見たまま、しばらく動かなかった。

*

土曜日、駅で手土産を買った。

何にするか迷って、結局、母がいつも選ぶ小さなせんべいにした。

電車に乗ってから、その板を開いた。

夜ふかし時計さんが、別のスレッドで、止まった目覚まし時計の相談に答えていた。

店を閉めても、聞く人はいるらしかった。

息子さんの名前は見当たらなかった。
たぶん、何かしているのだろう。

そう思って画面を閉じた。

窓の外に、見覚えのある建物が増え始めていた。

*

「ただいま」

玄関で言うと、奥から母の声がした。

「開いてるよ」

もう開けて入っているのに、と思いながら靴を脱いだ。

台所では、鍋のふたが少しずれていた。
煮汁の匂いがした。

「手、洗って。もうできてるから」

食卓に座ると、母が私の手首を見た。

「あら、それ」

私は、少し腕を上げた。

「電池を替えてもらった」

「まだ持ってたの」

「持ってたよ」

「使ってなかったでしょう」

「……うん」

母は笑って、煮物の皿を置いた。

思っていた煮物とは、違った。
でも、これも好きなものだった。

*

食べながら、時計屋の話をした。

閉店の日に駆け込んだこと。
最後のお客さんたちが来たこと。
翌日には、息子さんが棚を外しに来ていたこと。

掲示板の日付のことは、話さなかった。

そこを話そうとすると、説明がずいぶん長くなる。

母は、里芋を箸で割りながら聞いていた。

「よかったね。間に合って」

「うん」

「その時計、買うときもぎりぎりだったのよ」

初めて聞く話だった。

「何が?」

「お店の閉まる時間。仕事が終わってから行ったから」

母は私の腕を見た。

「もう片づけ始めてたのに、何本も出してくれてね」

私は時計の文字盤を見た。

母が店で選んだところを、今まで想像したことがなかった。

「そんなに迷ったの?」

「毎日使うものだから。見やすい方がいいか、服に合わせやすい方がいいか」

「何でもよかったのに」

言いかけて、やめた。

母は私の顔を見た。

「何?」

「ううん。これでよかった」

母は少しだけうなずいて、私の皿に、もうひとつ里芋を入れた。

*

食後、食器を洗った。

母が隣で拭いていた。

前は、私が洗った皿をもう一度すすいだりしていたけれど、今日は何も言わなかった。

「これ、どこ?」

小さな鉢を持ち上げると、

「いつものところ」

と返ってきた。

その、いつものところがわからない。

戸棚をふたつ開けて、やっと見つけた。

帰ってきたつもりでいたけれど、私が知らないうちに、少しずつ物の場所が変わっていた。

最後の湯飲みを渡したとき、母が言った。

「今日は、何かあったの?」

私は手を止めた。

「何かって?」

「いや、ずいぶん話を聞くから」

「いつも聞いてるでしょう」

「そう?」

母は湯飲みの底を拭いた。

私は、ここ数日の自分の相づちを思い出した。

仕事の画面を見ながら。
出かける支度をしながら。
あとで調べようと思ったことを、スマホで調べながら。

「今日は、急いでないから」

そう答えると、母は、

「じゃあ、お茶にしよう」

と言った。

*

帰り際、せんべいの袋を半分持たされた。

「持ってきたものなのに」

「一人じゃ食べきれないもの」

玄関で靴を履きながら、私は振り返った。

母は、戸棚の上に置いた鍵を探していた。
私を駅まで送るつもりらしかった。

「歩くから大丈夫」

「そう?」

「うん。また来る」

母は鍵を探す手を止めた。

「今度は、来る前に連絡してね」

「今回はしたでしょう」

「ああ、そうだった」

二人で笑った。

家を出てから、腕時計を見た。

電車までは、まだ時間があった。

*

その夜、私は例の画像をもう一度開いた。

土曜日の夜。
私の名前。
まだ書いていない文章。

日付には、もう追いついていた。

書かなかったら、どうなるのだろう。

あの人が読んだお願いは、誰が書いたことになるのか。
パンのことも、公園のことも、なかったことになるのだろうか。

考えているうちに、指先が冷たくなった。

私はスマホを置き、持ち帰ったせんべいの袋を開けた。

母が、輪ゴムを二重に巻いていた。
一本でいいのに、と思った。

袋の中には、私の好きな種類が多く残っていた。

私は一本だけ食べて、またスマホを手に取った。

*

入力欄に、文章を打った。

〈明日、公園でクリームパンを食べている夫婦に会ったら、二人が何を話していたか、娘さんに教えてあげてください。〉

画像を見ながら写すのをやめた。

公園のことを思い出した。

おじいさんの帽子。
奥さんが開けていた紙袋。
お茶の時間に遅れた話。

そのときは、誰かに伝えるほどの話だと思っていなかった。

けれど、聞きたい人がいた。

私は続きを打った。

〈うまく説明しなくても大丈夫です。覚えていることを、そのまま。〉

送信のボタンに指を置いた。

私の明日には、あの公園での出来事はもう起きない。

それでも、このスレッドのどこかには、まだあのベンチの前を通っていない人がいるのかもしれない。

誰に届くかはわからなかった。

私は、送った。

*

投稿は、いつもと同じように表示された。

日付も時刻も、今だった。

しばらく待ったけれど、何も起こらなかった。

私はお茶をいれ、母にメッセージを送った。

「今日はありがとう。煮物、おいしかった」

返事は、すぐに来た。

「また作っておくね」

その板に戻ると、私の投稿に返信がついていた。

クリームパンを頼んだ、あの人だった。

〈すみません。その夫婦は、私の両親かもしれません。〉

私は息を止めた。

数日前、私に「母です」と返してくれた人が、今、初めてその話を読んでいる。

返信は続いていた。

〈父が、母のところへ行けずにいるんです。〉

ここから、あのお願いにつながるのだ。

私は画面を見たまま、ゆっくり息を吐いた。

*

何と返そうか考えていると、もう一件、書き込みが届いた。

別の名前だった。

〈話の途中ですみません。お願いを書いてもいいですか。〉

私は入力欄を押した。

〈どうぞ。私にできることかはわかりませんが。〉

しばらくして、短い文章が届いた。

〈三日前に、この掲示板で少し嫌なことを書いてしまいました。〉

〈消したんですが、読んだ人がいます。〉

私は、画面を少し近づけた。

〈その人に、謝りたいんです。〉

(つづく)
投稿者 sonohen - 10-30-2026, 09:12 PM
第5話 聞こえていますか

〈あなたは今、どこにいるんですか。〉

送ってから、少し後悔した。

事情を聞くつもりが、居場所を問い詰めるような文章になっていた。

窓の外で、車が一台通った。
天井を、薄い光が横切った。

返信が来た。

〈自分の部屋です。実家からは、新幹線で三時間くらいのところです。〉

それだけ読んで、私は少し息をついた。

遠いけれど、行けない距離ではない。

〈しばらく、帰れていなくて。〉

続けて届いた文章を読んだ。

〈耳が、ほとんど聞こえなくなったんです。〉

*

机の上で、腕時計が動いていた。

耳に近づけなくても、部屋が静かなら、ときどき音が聞こえる。

私は時計から手を離した。

〈前に、お父さんから電話があったと書いていらっしゃいましたよね。〉

〈はい。今は、通話の内容を文字で読んでいます。うまく出ない言葉もありますけど。〉

〈そうだったんですね。〉

そのあとが、続かなかった。

「大変ですね」と書いて、消した。
「治るんですか」も、聞かなかった。

画面の向こうから、少しずつ文章が届いた。

〈父は、用件から話すのでわかりやすいんです。病院。手続き。何日に帰るか。〉

〈母は、途中から話すんです。〉

私は、その一文を読み返した。

〈「それでね」とか、「この前の、あれだけど」とか。〉

少しだけ、笑ってしまった。

うちの母も、そうだった。

〈それ、わかります。〉

初めて、迷わず書けた。

*

〈聞こえていたころ、母から電話が来たんです。仕事中で、出られなくて。〉

〈あとで話せばいいと思っていました。次の休みにでも。〉

私は、母に送りかけていたメッセージを思い出した。

「土曜日、家にいる?」

まだ送っていなかった。

〈そのあと、病気をして。今も、母とはメッセージをしています。会えば顔を見て話せます。〉

そこで、一度文章が途切れた。

〈でも、あのとき何を話したかったのか、聞いても母は覚えていないんです。〉

私はスマホを持ち直した。

〈たいしたことじゃなかったのよ、って。〉

しばらくして、続きが届いた。

〈たぶん、本当にそうだったんだと思います。〉

*

私は、あの公園の奥さんを思い出した。

「電車は昨日も走っていました」

そう言って、おじいさんを見ていた。
おじいさんは、私にだけ肩をすくめてみせた。

〈お母さん、公園で、お父さんに言っていました。〉

私はその言葉を、そのまま書いた。

〈お茶の時間が終わってから来るって怒っていました。お父さんが電車のせいにしたら、「電車は昨日も走っていました」って。〉

送信してから、余計なことだったかもしれないと思った。

聞こえない人に、私が聞いた声の話をしている。

けれど、返信はすぐに来た。

〈母です。〉

そのあとに、

〈間違いなく、母です。〉

私は、続きを書いた。

クリームパンは、ふたつあったこと。
昨日は、おじいさんにも半分あげたらしいこと。
「今日はそれぞれ。けんかになりますからね」と言っていたこと。

画面の向こうの人は、何度も短く返事をした。

〈言いそうです。〉

〈父、きっと袋をのぞいていたんでしょうね。〉

〈ありがとうございます。そこにいるところが、目に浮かびます。〉

私は、パンの袋を開ける奥さんの手を思い出そうとした。

少しゆっくりだった。
でも、自分で開けていた。

そのことも、書いた。

*

〈父、私にはそういう話をしないんです。〉

やがて、そう返信が来た。

〈母が何を食べたとか、書類がどうなったとか。必要なことは教えてくれます。〉

〈でも、半分取られたパンの話は、してくれない。〉

私は笑った。

昨日まで知らなかった家族のことが、少しずつわかる。

〈クリームパンを譲ってほしいと書いたのは、どうしてですか。〉

今なら聞ける気がした。

〈父が、電話で言っていたんです。あのパンがあれば、母のところへ寄ろうと思ったけど、売り切れていたって。〉

私は画面を見つめた。

私の知っている日には、売り切れていなかった。
最後のひとつを、おじいさんが買った。

〈それで、書いてみたんです。あのとき買えたら、行けたのかなと思って。〉

〈でも最初の投稿には、「明日」と書いてありましたよね。〉

〈はい。父が行かなかった日の、前の日の誰かに届けばと思って。〉

私は上へ戻った。

駅の名前も、店の名前もない、短いお願い。

〈どうして、届くと思ったんですか。〉

今度は、少し待った。

〈私も、ここでお願いを読んだからです。〉

*

新しい文章が届く前に、スマホが震えた。

母からだった。

私は一瞬、通話のボタンと掲示板の画面を見比べた。
それから電話に出た。

「もしもし」

「あ、起きてた?」

「起きてるよ」

「遅くにごめんね。返事がなかったから」

三週間前の、「今度、いつ帰ってくる?」のことだった。

「土曜日に行こうと思って。今、送ろうとしてた」

「あら、そう。何時?」

「お昼くらい」

「じゃあ、お昼はこっちで食べるのね」

「うん」

向こうで、何かがかさかさ鳴った。

「何してるの?」

「冷凍庫を見てる」

「今?」

「何があったかなと思って」

私は笑った。

電話を持ったまま、母が冷凍庫を開けている。
包みを持ち上げ、下をのぞいている姿が、見なくてもわかった。

「何でもいいよ」

「何でもいいが、一番困るのよ」

それも、何度も聞いた言葉だった。

「じゃあ、いつもの煮物」

「いつものって、どれ」

私は声を出して笑った。

*

電話は、七分ほどで終わった。

時計を直したことは、言いそびれた。
土曜日、つけていけばいい。

その板に戻ると、返信が増えていた。

〈すみません。長くなってしまって。〉

私は急いで打った。

〈母から電話が来ていました。土曜日に帰る約束をしました。〉

〈よかったです。〉

少し考えてから、書いた。

〈何を食べるかという話だけでした。〉

送ってから、これでは軽すぎると思った。

でも、画面の向こうから届いたのは、

〈そういう話、いいですよね。〉

という返事だった。

私は、土曜日の予定を手帳に書いた。

「実家。昼ごはん」

それだけで、一日の予定になった。

*

先ほどの話を、もう一度尋ねた。

〈ここで読んだお願いって、どんなものだったんですか。〉

〈短い書き込みでした。最初は、私に関係があるとは思わなかったんです。〉

少しして、文章が貼られた。

〈明日、公園でクリームパンを食べている夫婦に会ったら、二人が何を話していたか、娘さんに教えてあげてください。〉

私は手を止めた。

公園のベンチ。
車椅子。
紙袋に入った、ふたつのパン。

〈それ、いつ読んだんですか。〉

〈最初のお願いを書く前です。〉

私はスレッドの一番上まで戻った。

「明日のあなたへ」

最初にあるのは、クリームパンを譲ってほしいという書き込みだった。
その前には、何もなかった。

〈誰が書いたものですか。〉

返事を待つ間、机の上の時計が聞こえた。

やがて、一行だけ届いた。

〈あなたと、同じ名前の人です。〉

(つづく)
投稿者 sonohen - 10-29-2026, 11:58 PM
第4話 用事がなくても

〈そちらでは、店はまだ開いていますか。〉

私は壁の時計を見た。

午後十一時十七分。

ミズノ時計店のシャッターは、もう下りている。
私が店を出たのは、七時を少し過ぎたころだった。

〈こちらでは、今日が最後の営業日でした。〉

送ってから、付け足した。

〈帰るときには、まだ何人かお客さんがいらっしゃいました。〉

返信を待つ間、何度も読み返した。

もう少し早く書き込んでくれていたら。

そう思いかけて、やめた。
このスレッドでは、何をもって早いというのか、まだわからない。

〈お父さんは、「夜ふかし時計」という名前で、このスレッドに書いていらっしゃいます。〉

今度は、すぐに返信が来た。

〈読みました。〉

続けて、もう一行。

〈父が、こんなふうに人と話すのを、初めて見ました。〉

私は上へ戻り、夜ふかし時計さんの文章を読んだ。

「五分くらいなら、待ちます」

「最後の日に、直すものを持ってきてもらえるのは、うれしいものですね」

息子さんには、どんなふうに見えたのだろう。

*

〈店を継がずに出たんです。〉

新しい書き込みが届いた。

〈そのとき、少し言い合いになりました。〉

少し、と書いてあった。

どのくらいの言い合いだったのか、私は聞かなかった。

〈別の仕事がしたくて。でも、そちらもうまくいかなくて。〉

そこで、しばらく止まった。

私は「お父さんは、きっと」と打った。

きっと、何だろう。

会いたがっている。
怒っていない。
帰ってきてほしい。

どれも、私にはわからなかった。
文章を消し、スマホを机に置いた。

*

湯を沸かして戻ると、夜ふかし時計さんの返信があった。

〈健一か。〉

たった四文字だった。

それまで親切に返事をしていた人が、急に、誰かのお父さんになった。

私は画面に触れずに待った。

〈そうです。〉

〈番号は変わっていない。〉

そのあと、書き込みが途切れた。

電話をかけているのかもしれない。

私は別のスレッドを開いた。
誰かが、夕飯の焼き魚を少し焦がしたと書いていた。

いつもなら笑って読めるのに、文字が頭に入ってこなかった。

*

十分ほどして、戻った。

息子さんの返信が増えていた。

〈番号は、知っています。〉

その下に、もうひとつ。

〈何の用だと言われると、言うことがなくなるんです。〉

私は、先ほど消した文章を思い出した。

何を思っているかなんて、本人にしかわからない。
けれど本人同士でも、わからないことがあるらしかった。

夜ふかし時計さんから返信が来た。

〈明日、棚を外す。〉

続けて、

〈一人では危ないので、手を貸してほしい。〉

私は、日付を確かめた。

夜ふかし時計さんの明日は、息子さんにとっていつなのだろう。

同じことを考えたのか、息子さんが尋ねた。

〈何日のことですか。こっちは、店を閉めた日の夜です。〉

少しして、返事が届いた。

〈そっちの明日でいい。十時には店にいる。〉

*

翌朝、腕時計をつけて家を出た。

昨日まで気にもしていなかった商店街への曲がり角が、目に入った。

十時には、二人とも店にいるのだろうか。

私は駅へ向かった。

仕事中も、何度かその板を開いた。
返信は増えていなかった。

昼休みも。
帰りの電車でも。

書き込みがないだけで、こんなに落ち着かなくなるとは思わなかった。

*

店の前を通ったのは、六時半ごろだった。

シャッターが半分ほど開いていた。
中から、段ボールを動かす音がした。

入口の脇に、昨日の紙が貼ってあった。

「まだ開いています」の行だけ、丁寧に折り込まれていた。

私は少し離れたところで足を止めた。

「そっち、持って」

中から声がした。

「そっちって、どっち」

「お前の右」

「最初からそう言ってよ」

木のこすれる音がして、二人分の息が漏れた。

それから、

「置くよ」

「まだ。指がある」

「ああ、ごめん」

少しして、重いものが床に着く音がした。

私はそのまま、通り過ぎようとした。

「時計の方」

振り返ると、店主が入口で腰をかがめていた。

「具合、どうですか」

私は手首を上げた。

「ちゃんと動いています」

「それはよかった」

その後ろから、男の人が顔を出した。
私と同じくらいか、少し上に見えた。

袖に、白いほこりがついていた。

「紙を書いてくれた人?」

店主がうなずいた。

男の人は店から出てきて、頭を下げた。

「昨日は、どうも」

何に対してのお礼なのか、お互い説明しなかった。

「棚、大変そうですね」

「これ、父が自分で作ったんです。外す順番を忘れたっていうから」

店の奥から声がした。

「忘れてない。思い出してるんだ」

男の人は、肩についたほこりを払った。

「ずっと、これです」

そう言った顔が、少し笑っていた。

*

店の中は、昨日とは違っていた。

壁の時計がいくつも外され、四角や丸の跡が残っていた。
こんなにも色が違うのかと思った。

カウンターの端には、湯飲みがふたつ置いてあった。
片方には、お茶がまだ半分残っていた。

店主は工具を探しながら言った。

「腹が減ったな」

「昼、食べたでしょう」

「もう夜だ」

男の人が腕時計を見た。

「ああ、ほんとだ」

二人とも、こちらを見ていなかった。

私は小さく会釈して、店を出た。

*

その夜、息子さんから書き込みがあった。

〈今日、行ってきました。〉

私はすぐに返信した。

〈お会いできてよかったです。〉

〈こちらこそ。結局、一日かかりました。〉

続けて、少し長い文章が届いた。

〈話そうと思っていたことは、ほとんど話せませんでした。謝るつもりで行ったのに、棚の外し方でもめて、昼を食べて、また片づけて。〉

私は、ふたつの湯飲みを思い出した。

〈帰りに、また来いと言われました。〉

その下に、一行。

〈もう棚はないのに。〉

私は笑った。

今度は、返す言葉を探さなくてもよかった。

〈次は、お茶が冷める前に飲めそうですね。〉

*

しばらくして、夜ふかし時計さんが現れた。

〈お世話になりました。〉

〈私は、時計を直していただいただけです。〉

〈その時計、大事にしてください。〉

机の上に置いた腕時計を見た。

五年も放っておいたものだった。
それでも、新しい電池を入れたら、また動いた。

〈母にもらったものなんです。今度、つけているところを見せようと思います。〉

送信してから、母とのやり取りを開いた。

最後のメッセージは、三週間前だった。

「今度、いつ帰ってくる?」

私の返事は、

「予定わかったら連絡する」

そのままになっていた。

時計を持って帰ろう。
そう思って、週末の予定を確かめた。

*

その板へ戻ると、返信が一件増えていた。

夜ふかし時計さんではなかった。

最初に、クリームパンを譲ってほしいと書いた人だった。

〈お母さんに、会いに行かれるんですね。〉

〈はい。週末にでも。〉

返信は、すぐには来なかった。

私は、母へのメッセージを書き始めた。

「土曜日、家にいる?」

送信する前に、掲示板の画面へ戻った。

新しい文章があった。

〈よかった。〉

その下に、もう一行。

〈私も最初は、次の休みに電話しようと思っていたんです。〉

私は、その人の以前の書き込みを読み返した。

「父から電話がありました」

「母に怒られたって、うれしそうでした」

お父さんとも、お母さんとも、話せる人だと思っていた。

けれど、私が尋ねたことには、一度も答えていなかった。

なぜ、自分でお父さんに連絡しなかったのか。

私は、ゆっくり打った。

〈あなたは今、どこにいるんですか。〉

(つづく)
投稿者 sonohen - 10-29-2026, 12:08 AM
第3話 まだ開いています

〈私の画面では、このスレッドの投稿は全部、昨日の日付です。〉

「夜ふかし時計」の書き込みを、三度読んだ。

入力欄には、まだ私の質問が残っていた。

〈では、私の明日のことも知っているんですか。〉

それを消して、別のことを聞いた。

〈夜ふかし時計さん。そちらは今、何日ですか。〉

返ってきた日付は、私の二日先だった。

パン屋のおじいさんの家族は、一日先。
夜ふかし時計さんは、さらにその先。

紙に書いてみた。

私の今日。
あの人の今日。
夜ふかし時計さんの今日。

横に並べた三つの日付を見ていると、学校を休んだ日に、授業の進み具合を教えてもらったときのことを思い出した。

自分がまだ開いていないページを、誰かはもう読んでいる。

〈時刻は、十一時四十二分です。〉

夜ふかし時計さんが付け足した。

壁の時計も、同じ時刻だった。

*

〈もし本当に二日前なら、そちらでは、うちはまだ開いているんですね。〉

しばらくして、その一文が届いた。

〈お店ですか?〉

〈時計屋です。昨日、閉めました。〉

私は紙の日付を指でたどった。

この人の昨日は、私の明日だった。

〈閉店されたんですか。〉

〈はい。四十三年やりました。〉

四十三年。

私がこの人の名前を掲示板で見かけるようになったのは、ほんの最近だ。

誰かの夕飯に「うまそうですね」と返したり、難しい漢字に「降参」と書いたりする人だった。

その名前の向こうに、四十三年分の仕事があった。

〈お疲れさまでした。〉

打ってから、少し迷った。

私の方では、まだ終わっていない。

けれど、そのまま送った。

〈ありがとうございます。最後まで、いつもどおりでした。〉

続けて、もうひとつ。

〈いつもどおりすぎて、誰にも気づかれませんでしたが。〉

*

店の名前を聞くと、「ミズノ時計店」と返ってきた。

駅の南側。
古い映画館の向かい。

どちらも知っていた。

映画館は、今は駐輪場になっている。
その向かいに、小さな時計屋があった。

前を何度も通っていたけれど、入ったことはなかった。

私は机の引き出しを開けた。

使わなくなった鍵。
いつのものかわからない保証書。
片方だけのイヤホン。

その奥に、腕時計があった。

就職したとき、母が買ってくれたものだった。

電池が切れたまま、ずっとしまっていた。
スマホで時間がわかるから、不便はなかった。

取り出すと、革のベルトが思っていたより硬くなっていた。

〈明日、電池交換をお願いしに行ってもいいですか。〉

返信は、少し遅かった。

〈そちらの明日、ですね。〉

〈はい。仕事の帰りになります。〉

〈六時までです。〉

間を置いて、もう一行増えた。

〈五分くらいなら、待ちます。〉

*

翌日、駅に着いたのは五時五十八分だった。

走った。

こんな日に限って、改札の前で鞄の持ち手が人に引っかかった。
謝って、また走った。

映画館だった場所の向こうに、小さな明かりが見えた。

シャッターは、まだ下りていなかった。

ドアに手をかけたとき、腕時計のない手首を見てしまった。

中にいた男の人が、壁の時計を見た。

「六時四分」

私は息を整えながら、頭を下げた。

「すみません。電池交換、まだ大丈夫ですか」

「どうぞ」

白髪の男の人だった。
思っていたより背が高く、紺色の作業着を着ていた。

鞄から時計を出すと、カウンターに柔らかい布を敷いてくれた。

「長いこと、止まっていました?」

「たぶん、五年くらい」

「開けてみますね」

それから、小さな工具を取った。

私は、その手元を見ていた。

この人は、まだ知らないのだ。

昨夜、私と話したことも。
自分が「五分くらいなら、待ちます」と書いたことも。

ここではまだ、明日のことだった。

*

壁には、時計がたくさん掛かっていた。

丸いもの。
四角いもの。
振り子のあるもの。

秒針の音が少しずつずれて、部屋の中を細かく刻んでいた。

カウンターの端に、閉店のお知らせがあった。

葉書ほどの紙だった。

今日の日付と、長年のご愛顧へのお礼。
文字は丁寧だったけれど、外からは見えない場所に置かれていた。

「今日までなんですね」

声をかけると、店主は手元を見たままうなずいた。

「ええ。ちょうどよかったですね」

「外には、貼らなかったんですか」

「大げさにするほどでもないので」

小さなねじが、皿の中に置かれた。

「閉店と書くと、もう終わったと思って帰る人もいますしね」

私は、走ってきた道を振り返った。

夕方の商店街を、人が通っていた。
誰も、こちらを見ていなかった。

「最後まで、開いているってわかる方がいいんですね」

「まあ、そうですね」

カウンターの内側に、紙と太いペンがあった。

私は、少しためらってから言った。

「一枚、書いてもいいですか」

店主が顔を上げた。

*

書いた紙を見せると、店主は眼鏡を少しずらした。

〈四十三年間、ありがとうございました。
本日が最後の営業日です。
まだ開いています。〉

「もう六時、過ぎていますよ」

「そうなんですけど」

余計なことをしたかもしれない。

紙を引っ込めかけると、店主が手を出した。

「テープは、そっちです」

*

最初に立ち止まったのは、買い物袋を提げた女の人だった。

紙を読んで、店の中をのぞいた。

「えっ、今日で終わり?」

店主が工具を置いた。

「お世話になりました」

「ちょっと。そういうことは、先に言ってくれないと」

女の人は入ってくるなり、腕を出した。

「これ、ここで買ったのよ」

「知っていますよ。ベルトも二回替えました」

「三回」

「三回でしたかね」

二人とも笑った。

次に来た男の人は、何も持っていなかった。

「前に、母の時計を直してもらって」

それだけ言って、少し黙った。

店主は、続きを急かさなかった。

私はカウンターの端へ移った。

六時半を過ぎたころ、店主が私を呼んだ。

布の上で、腕時計の秒針が動いていた。

「電池だけで大丈夫でした」

耳に近づけると、小さな音がした。

「よかった」

思っていたより、ほっとした声が出た。

店主はベルトを軽く曲げて、状態を確かめた。

「まだ使えますよ」

*

家に帰って、その板を開いた。

何から書こうか考えているうちに、夜ふかし時計さんの返信が表示された。

〈変なことを聞きますが、今日、紙を書いてくれましたか。〉

私は、椅子を引いた。

〈はい。勝手なことをして、すみません。〉

〈いえ。〉

そのあと、少し間があった。

〈昨日の閉店のことを、思い出していました。六時に閉めたはずなのに、七時過ぎまで人がいたことも覚えているんです。〉

私は腕時計を見た。

秒針は、止まらずに進んでいた。

〈あの紙、持って帰りました。捨てられなくて。〉

何と返したらいいかわからず、私はしばらく画面を見ていた。

やがて、夜ふかし時計さんが書いた。

〈最後の日に、直すものを持ってきてもらえるのは、うれしいものですね。〉

腕から時計を外し、机の上に置いた。

今夜は、引き出しにしまわなかった。

*

寝る前に、もう一度スレッドを開いた。

新しい返信が、一件増えていた。

初めて見る名前だった。

〈ミズノ時計店の話でしょうか。〉

続けて、もう一件。

〈息子です。父とは、もう長いこと話していません。〉

私は身を起こした。

〈閉めることも、ここで初めて知りました。〉

投稿の時刻は、午後十一時十七分。

そして、その人はこう尋ねていた。

〈そちらでは、店はまだ開いていますか。〉

(つづく)
投稿者 sonohen - 10-27-2026, 07:25 PM
第2話 遅いですよ
スマホの日付を確かめた。
間違っていない。
掲示板のほかの投稿も、今日の日付になっている。
「明日のあなたへ」の投稿だけが、一日先にあった。
画面を引っぱって、読み込み直した。
何も変わらなかった。
〈投稿の日付が、明日になっています。〉
送ってから、もう一文を足した。
〈私の画面だけでしょうか。〉
部屋は静かだった。
冷蔵庫が、思い出したように低い音を立てた。
しばらくして、返信がついた。
〈こちらでは、今日の日付です。〉
私は画面の上にある時計を見た。
午後十一時十七分。
〈そちらは、もう日付が変わっていますか?〉
〈いいえ。まだ十一時十七分です。〉
同じ時刻だった。
入力欄に「どちらにお住まいですか」と打って、消した。
初めて書き込んだ日に、知らない人の住んでいる場所まで聞こうとしている。
スマホを置いた。
明日になれば、普通の日付になる。
そうしたら、こんなに気にならなくなるかもしれない。
布団に入ってから、もう一度だけ画面を見た。
返信は増えていなかった。
*
翌日、帰り道でパン屋に寄った。
確かめに来た、というほどのことではない。
くるみパンを、もうひとつ食べたかった。
そういうことにして、ドアを押した。
「今日は、ふたつですか」
昨日と同じ店員が、トレーを見て言った。
「おいしかったので」
「よかった」
袋にパンを入れながら、店員が笑った。
「昨日の方も、喜んでいらっしゃいましたよ」
顔を上げた。
「おじいさんですか」
「ええ。今日、お礼を言っておいてくださいって」
私は財布から出しかけた硬貨を、いったん戻した。
「今日も、来られたんですか」
「奥さまとご一緒に」
奥さんは、生きていた。
昨日、勝手に思い浮かべてしまったお墓の景色を、私は頭の中から片づけた。
「しばらく入院されていて。こちらへ戻られたんですって」
店員は、通りの向こうへ目を向けた。
小さな公園があった。
その奥に、薄いれんが色の建物が見える。
*
おじいさんは、公園のベンチにいた。
隣には、車椅子の女の人がいた。
膝に置いた紙袋の口を、ゆっくり開けていた。
通り過ぎるつもりだった。
けれど、おじいさんが私に気づいて、紺色の帽子を上げた。
「昨日の」
女の人が顔を向けた。
「パンの方?」
パンの方。
そう呼ばれたのは、初めてだった。
「ありがとうございました。半分、いただきました」
「半分?」
「この人が、横でじっと見ているものですから」
「そんなつもりじゃなかったんだけど」
おじいさんは、帽子の縁を両手でなぞった。
奥さんは知らん顔で、紙袋からクリームパンを取り出した。
今日は、ふたつ入っていた。
「今日はそれぞれ。けんかになりますからね」
私は笑った。
おじいさんも笑った。
昨日の「好きだった」という言い方だけで、私はずいぶん遠いところまで想像してしまっていた。
*
奥さんが建物の入口にいる職員へ手を振ったとき、おじいさんが小さな声で言った。
「昨日、やっと顔を出せましてね」
「そうだったんですか」
「家に帰りたいって言われると思うと、どうも足が向かなくて」
帽子の縁をなぞる手が、止まった。
「私ひとりでは、まだ迎えられないものですから」
奥さんは職員と話していた。
明日持ってきてほしいものがあるらしく、指を折りながら何かを数えていた。
「行かなきゃと思って、毎日、駅までは来ていたんです」
あのパン屋は、駅からこの公園へ来る途中にある。
「昨日も、パンがなければ帰ろうと思っていたんですよ。手ぶらじゃ、なんですから」
私は、返す言葉を探した。
あのとき、私が買っていたら。
おじいさんは空のトレーを戻して、家へ帰っていたのだろうか。
「……怒られましたか」
聞くと、おじいさんは少し笑った。
「ええ」
奥さんの方を見た。
「遅いですよ、って」
その声が聞こえたらしく、奥さんが振り返った。
「本当に遅いんですよ。お茶の時間が終わってから来るんですから」
「電車がね」
「電車は昨日も走っていました」
おじいさんは、私にだけ見えるように小さく肩をすくめた。
私は、くるみパンの入った袋を持ち直した。
「では、また」
言ってから気づいた。
この人たちに、また会うつもりでいる。
*
帰宅して、その板を開いた。
例の投稿は、今日の日付になっていた。
ようやく日付の方が追いついたのに、もう、見間違いだったとは思えなかった。
〈今日、お父さんとお母さんにお会いしました。パン屋の向かいの公園で。〉
少し考えて、続けた。
〈クリームパン、今日はふたつありました。〉
送信して、湯を沸かした。
マグカップを持って戻ると、返信がついていた。
〈父から電話がありました。母に怒られたって、うれしそうでした。〉
その投稿の日付は、また明日だった。
私は椅子に座った。
〈どうして、私があのパン屋へ行くとわかったんですか。〉
今度は、すぐに返信が来た。
〈わかりませんでした。〉
続けて、もうひとつ。
〈誰も読まないかもしれないと思っていました。〉
私は最初のお願いを読み返した。
駅の名前も、店の名前もない。
こんな書き方で、誰かに届くと思ったのだろうか。
けれど、届いた。
〈なぜ、ご自分でお父さんに連絡しなかったんですか。〉
送信した直後、聞きすぎたと思った。
家族にしかわからない事情もある。
私は、パンをひとつ譲っただけだ。
〈すみません。答えにくければ、大丈夫です。〉
しばらくして、返事が来た。
〈ありがとうございます。うまく説明できなくて。〉
その下に、一行あった。
〈あなたの「今日」が、私にはもう終わっているんです。〉
マグカップから手を離した。
廊下で、誰かの帰ってくる足音がした。
鍵が回り、ドアが閉まった。
私は入力欄を押した。
〈では、私の明日のことも知っているんですか。〉
送信する前に、新しい返信が表示された。
別の名前だった。
「夜ふかし時計」。
見覚えがあった。
いつも夜遅く、誰かの投稿に短い返事をつけている人だ。
その人は、こう書いていた。
〈横からすみません。日付の話が気になって、ずっと読んでいました。〉
そして、もう一行。
〈私の画面では、このスレッドの投稿は全部、昨日の日付です。〉
(つづく)
投稿者 sonohen - 10-26-2026, 10:31 PM
第1話 最後のクリームパン
寝る前に、その板を開く。
いつからか、それが一日の終わりになっていた。
知らない人が、今日食べたものの話をしている。 難しい漢字を出す人がいる。 誰かの冗談に、別の誰かが律儀に返事をしている。
私は一度も書き込んだことがない。
それでも、何日か見かけない名前があると、少し気になった。
その夜、新しいスレッドがひとつ増えていた。
「明日のあなたへ」
開くと、短い文章があった。
〈明日、駅前のパン屋で、最後のクリームパンを譲ってください。〉
その下に、もう一行。
〈代わりに、くるみパンがおすすめです。〉
「そこまで決めるんだ」
声に出してから、ひとりで笑った。
どこの駅なのかも書いていない。 誰に頼んでいるのかもわからない。
返信は、ゼロだった。
*
翌日は、帰りが遅くなった。
駅前のパン屋には、まだ明かりがついていた。昼をろくに食べていなかったことを思い出して、ドアを押した。
棚には、食パンが二斤。 くるみパンが三つ。 クリームパンが、ひとつ。
トングを持ったまま、手が止まった。
ガラス越しに、歩道を走る自転車が見えた。昨日の投稿を、頭の中でもう一度読んだ。
隣に、人が立った。
紺色の帽子をかぶったおじいさんだった。 空のトレーを持って、クリームパンを見ていた。
「あ、どうぞ」
考えるより先に言っていた。
おじいさんは私とパンを交互に見た。
「いいんですか」
「私は、こっちなので」
くるみパンを取ってみせると、ようやくトングが動いた。
レジで、おじいさんが店員に言った。
「袋、別にしてもらえますか」
パンは、ひとつしかない。
店員は何も聞き返さず、小さな紙袋に入れた。
*
店を出ると、おじいさんが傘立ての横にいた。
「ありがとうございました」
帽子を取り、胸の前で持った。
「これ、妻が好きだったんです」
私は、紙袋を見た。
何か言わなければと思ったけれど、こういうとき、何を言えばいいのかわからない。
おじいさんは袋の口を丁寧に折った。
「今日は、怒られに行こうと思いまして」
「……怒られに?」
「ええ。だいぶ、放っておいたので」
そう言って、初めて少し笑った。
駅とは反対の道へ、ゆっくり歩いていった。
家に着いてから、くるみパンを食べた。
香ばしくて、思ったより柔らかかった。 もうひとつ買えばよかったと思った。
*
その夜、私は例のスレッドを開いた。
返信は、まだなかった。
入力欄を押すと、画面の半分がキーボードになった。 いつも読んでいる場所なのに、急によその家へ上がり込んだような気がした。
〈今日、クリームパンを譲りました。〉
それだけ打って、一度消した。
駅前のパン屋なんて、いくらでもある。 最後のひとつを譲る人だって、いるだろう。
少し迷って、今度はこう書いた。
〈偶然だと思いますが、今日、おじいさんにクリームパンを譲りました。くるみパンもおいしかったです。〉
送信した。
自分の文章が、ほかの人と同じ場所に並んだ。
落ち着かなくて、いったん画面を閉じた。 すぐに、また開いた。
返信がついていた。
〈よかった。あの人、今日はちゃんと帰れたんですね。〉
帰れた。
買えた、ではなく。
私はゆっくり打った。
〈あの方のお知り合いですか?〉
今度は、なかなか返信がなかった。
歯を磨いて戻ると、短い一文が増えていた。
〈母が、ずっと待っていたので。〉
それを読んで、少し安心した。
なんだ。家族の話だったのか。 どういう事情か知らないけれど、あの人は奥さんのところへ帰ったのだ。
〈会えていたらいいですね。〉
そう返して、スマホを充電器につないだ。
画面が暗くなる直前、もうひとつ返信が届いた。
〈はい。明日、父に聞いてみます。あなたが譲ってくれたかどうか。〉
私は、充電器からスマホを外した。
今日のことだ。
クリームパンを譲ったのは、今日。
最初の投稿の日付を確かめようと、画面を上へ戻した。
昨夜は気づかなかった。
投稿日時は、明日になっていた。
(つづく)
投稿者 sonohen - 10-26-2026, 10:29 PM
その板で、物語を始めます。
いつもの掲示板に届いた、少し不思議な書き込み。 それを読んだ人の日常が、ほんの少し動き始めます。
一話ずつ、このスレッドに続きを載せていきます。 感想も、「こういうこと?」という予想も、お気軽にどうぞ(^^)
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